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講堂朝礼〜生徒へのメッセージ〜

Messages for Students

9月のみ言葉 と 意向  宗教科 納富 幸夫

「タラントンのたとえ話」は、時代を超えた教訓として、今日でも語り継がれています。パレスチナでタラントンの価値は銅貨、銀貨、金貨によって異なり、一番よく使われていたのは銀貨でした。1タラントンの銀貨は、貨幣相互表によると、約24万円に相当します。これは当時の人の約16年分の賃金で、相当な額でした。
 この話の中心人物は、明らかに1タラントを受けた僕(しもべ)でしょう。そうすると、この無益と思われている僕とは一体、誰のことなのでしょうか。イエス様は、誰に警告を与え、誰を非難しておられたのでしょうか・・・。
 無益な僕とは、疑いもなく、律法学者とファリサイ人のことであって、非難されているのは律法と神の真理に対する彼らの態度ということになります。この無益な僕は、自分に預けられたタラントンをそのまま主人に返そうとして、地下に埋めました。
 律法学者とファリサイ人達がしていることは、律法を変えずにそのまま保つことであって、律法の周囲に垣をめぐらすことでした。彼らは律法をわずかでも変えたり、それに何か少しでも付け加えたりすれば、《呪われる》と考えていました。この態度が神からの教えを曇らせ、新しいものを排斥する結果となっていました。昔のままの状態を維持しようとする律法学者、ファリサイ人達は、ちょうど、1タラントンを受けた無益な僕のようであって、その態度がイエス様の非難を受けたのです。イエス様はこう言われています。『真理には必ず危険が伴う。そこには、神は心を閉ざした人を用いられることはまずない』と。しかしこのたとえ話にはそれ以上の意味が含まれています。
 神は僕達に異なった賜物を与えられました。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、またある人には1タラントン。しかし問題は、タラントンをどれだけ持っているかではなく、 それをどのように使うかにあります。神は一人ひとりに与えられた能力や才能を 十分に使うことを期待されているのです。一人ひとりに与えられたタラントンの量においては、不平等に見えますが、それを用いる努力においては平等にされています。私たちは自分が持つタラントンが多くても、少なくても、それを精一杯、神と人に奉仕することに用いなければならないのです。
 また善い働きをした二人の僕達に主人は『何もしないでゆっくり休め』とは言われず、より大きな働きと責任を与えました。働きの報酬は休息ではなく、より多くの仕事でした。善い働きをした者にイエス様は『さらにたくさんのものを任せよう』と、その報酬としてさらに大きな働きをお与えになられたのです。
 また当然のことですが、努力しない者は罰せられます。1タラントンを与えられた僕は、「私のタラントンはわずかで、これでは何もできず何の役にも立たたないから、これで何かをやってみても無駄だ」とでも言いたくなるような誘惑を受けたのでしょう。僕はタラントンを使いませんでした。しかし何かをしてたとえ失ったとしても、何もしないよりは、ましなはずでした。神が叱責されたのは、1タラントンであっても全く使おうとせず、危険をおかしてでもそれを人のために役立てようとしなかったことにあります。
 与えられた技能や能力は、使えば使うほど、努力すればするほど、増えていき、次第に多くのことができるようになります。大きな仕事に取り組むことができます。しかし使わなければ、やがてなくなり、しまいには持っているものまでも失われてしまいます。才能を身につけておく唯一の道は、『それを神と人に仕えるため、十分に用いることである』と言われています。
 ですからこのイエス様のたとえ話は、時代を超えて、今の私たちの人生にも相通じる、 共通の教訓であると思われるのです。

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